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【magazine】スペシャルインタビュー2020 第六回「東京ミッドタウン・デザインハブとデザイン・ラウンジ」

武蔵野美術大学 デザイン・ラウンジ (以下、デザイン・ラウンジ) は、2020年12月に東京ミッドタウン・デザインハブ(以下、デザインハブ)内の拠点を閉室し、その機能を市ヶ谷キャンパスへ移行する。この機に、これまでデザイン・ラウンジにご関係頂いた学内外の方からお話を伺いながら、これまでの研究・活動を振り返り検証を行う、デザイン・ラウンジ オンライン企画「スペシャルインタビュー2020」の第6弾。

 

今回は、デザインハブの構成機関である公益財団法人日本デザイン振興会(以下、JDP)矢島進二氏、公益社団法人日本グラフィックデザイナー協会(以下、JAGDA)近藤直樹氏より、デザインハブの成り立ちや、その活動の変化を伺いながら、これからの社会とデザインの関係について考える。

 

【公益財団法人日本デザイン振興会(JDP)】

1969年設立。日本で唯一の総合的なデザインプロモーション機関として「グッドデザイン賞」の主催をはじめ、各種のデザインプロモーションおよびコーディネーション事業を展開。

 

 

【公益社団法人日本グラフィックデザイナー協会(JAGDA)】

1978年設立。現在3,000名の会員を擁する日本で唯一のグラフィックデザイナーの全国組織。年鑑の発行、展覧会やセミナー、地域振興や公共デザイン、デザインの権利保護などの公益事業を展開。

 

 

■デザインハブの成り立ち ―2007年3月の開設に向けた動き

 

―――デザインハブは、東京ミッドタウン開業と同時に、国際的なデザイン情報の発信拠点としてオープンしました。
その成り立ちは、どういったものだったのでしょうか?

 

矢島: 2004年当時、JDPは浜松町(港区)にありました。羽田空港へ行くには便利でしたが、人の行き来が少ない場所だったので、事務所の移転を検討し始めていました。そうした時に奇しくも三井不動産の方が、防衛省の跡地に東京ミッドタウンというデザインとアートの新しい街を作ります、とお話下さいました。さらに、そこではデザイン関連の拠点の開設も考えていて、何かやってもらえませんか?との相談をいただき、具体的な交渉が翌年2005年から始まったのです。当時はヘルメットをかぶって、まだ巨大な穴の状態だった工事現場を見学させて頂きました。

それまでの三井不動産は、デザインやアートという言葉があまり出てこないどちらかと言うと保守的なイメージがありましたが、東京ミッドタウンのプロジェクトでは「デザインとアートでまちづくり」を掲げていたので、是非応援をしたいと思っていました。


《インタビューの様子:右から矢島氏、近藤氏》


《東京ミッドタウン 工事現場》(2005年)

 

———東京ミッドタウン自体の開業準備段階から、デザインハブの開設計画は始動していたのですね。
JAGDAのデザインハブ入居は、どのように決まっていったのですか?

 

矢島: 2005年5月頃に、当時JDPの理事をされていた故・青葉益輝氏(グラフィックデザイナー)に、JAGDAも東京ミッドタウンに入居する可能性はあるでしょうか?と、相談してみました。青葉氏には、グッドデザイン賞のトロフィーや表彰状などをデザインして頂いていたのですが、JAGDAの副会長もされていたので、双方の事情をご存知でした。

 

近藤: 六本木に移転する前のJAGDAは、神宮前(渋谷区)にありました。2005年は、神宮前の事務所が手狭になっていた頃で、ちょうど移転を考え始めていたんです。またその頃、いろいろなデザイン団体の事務所を、どこか一か所の拠点に集約できないか?という話が出て、六本木にある別の施設が候補に挙がったりもしていました。しかし、中々まとまらず・・最終的にはJAGDA単独で移転を検討することになりました。
そんな中で、JDPからお誘いを頂いて、東京ミッドタウンへの入居が決まりました。

 

矢島: まだ図面もない時期でしたね。JAGDAの最初の東京ミッドタウン視察には、故・勝井三雄氏(JAGDA元会長・武蔵野美術大学 名誉教授)、故・小島良平氏(JAGDA元理事)、近藤さんがいらっしゃったと思います。

 

近藤: JAGDAは、日本全国に3000人の会員を擁していますが、半数の約1500人が東京、もう半数は全国各地にいます。なので、東京の事務所だけが、そんな良い場所に部屋を借りていいの?みたいなことが起きるかも・・といった意見もありましたが、実際に移転してみたら肯定的なご意見が多くありました。六本木の商業施設であれば一般の方にもデザインに触れてもらう機会になりますし、海外からの来訪者が増える気配もあったので、日本のデザインを発信していくには素晴らしい場所だ、という見方が多くありました。

 


《東京ミッドタウン視察の様子:右から福田会長、小島氏、勝井氏、青葉氏、東京ミッドタウン・マネジメント市川俊英社長(当時)》(2005年)

 

―――開設当初は、JDPとJAGDAのほかに、教育機関として九州大学が拠点を構えていました。
どういった経緯で、デザインハブに教育機関が構成されたのでしょうか?

 

矢島: 九州大学への打診も、当会がお声がけしました。東京に新しい拠点を探されていたこともあり、参画が決まりました。もともと、東京ミッドタウンには海外の教育機関が入る計画もあったようなので、デザインハブにも教育機関を入居してほしい、という流れがあったのかもしれません。
デザイン関連の教育機関、デザイナーの協会、プロモーション組織の3つが揃えばこれまでにないデザイン活動が展開できると考えたのです。

 

―――デザインハブには、連携拠点「インターナショナル・デザイン・リエゾンセンター(以下、リエゾンセンター)」もあります。最近は、オンライン配信対応やライブラリーの開放など、様々な機能が追加されていますが、リエゾンセンターの活動方針は、どのように決まったのですか?

 

矢島: リエゾンセンターは、名前のとおり「デザインを基軸とした国際的な連携拠点」です。具体的には、デザインの国際会議や研究発表などの活動を支援しています。開設当初は、海外の8校くらいの教育機関からサテライト拠点としての加盟があり、それから少しずつ加盟機関が増加していきました。東京ミッドタウンから、教育的要素がある場所を作ってほしいと要請があったことも作用しています。

 

―――なるほど。様々な出来事とタイミングが重なりながら、現在のデザインハブが形作られていったのですね。
その後、ムサビが入居することになったきっかけは、どういったものだったのでしょうか。

 

矢島: JDPの理事であった森山明子先生(デザイン情報学科 教授)に、最初相談してみたんです。そこから、学内で企画検討が始まり、ムサビの中では異例中の異例で決定した、と聞いています。理事会では、勝井氏が「ムサビのデザイン戦略拠点として、東京ミッドタウン・デザインハブはベストだ」と、力強く説明をして下さったと聞いています。

 


《公開講座トップデザインセミナー 2013 第1回》(2013年)


《グローバル・デザインフォーラム》(2017年)

 

 

■デザインハブの成り立ち ―全体の設計や名称について

 

―――デザインハブの全体の設計は、どのように決まっていったのですか?

 

矢島: 初期は、青葉氏と勝井氏と小島氏が中心となり、コピーライティング、インテリアなど、それぞれの第一線で活躍されている方々にご協力をお願いし、進んでいきました。

 

近藤: デザインハブの空間のトータルデザインは、近藤康夫氏(インテリアデザイナー)によるものです。初期の構成機関であった九州大学の教授でもありました。事務所同士の間の壁をガラス張りにする案など、色々なプランが行き交っていました。近藤氏の指定でデザインハブの床材は、バンブーになりました。またデザインハブのロゴマークは、平野湟太郎氏(グラフィックデザイナー)によるデザインです。

 


《デザインハブ設計当時のメモ》

 

 

―――デザインハブの名称には、「多くの人をデザインの力でつなぎ動かす場」といった意味が込められていますが、どのように決まっていったのですか?

 

矢島: 設立の頃、デザインハブ(DESIGN HUB)の「HUB(車輪の軸、複数のものが寄り集まる場所)」という言葉は、今のように一般的には使われていませんでした。ハブ空港、くらいでしょうか。「情報のハブ」や「伝える」「広げる」といった場のコンセプトはあったので、「デザインハブ(仮称)」として、2005年11月頃から内部的に使っていましたが、2006年3月の東京ミッドタウン記者発表に合わせて、確定していくことになりました。

勝井氏が日暮真三氏(コピーライター)に相談されたり、デザインハブの三機関からアイデアを出して決めていきました。デザインハブ以外の候補としては、「Design Node」「Design Crossing」「Design Link」などがありましたが、様々な議論の末に、2006年3月23日の記者発表にて、デザインハブという名称が初めて世に出ました。このときに、JDP、JAGDA、九州大学、リエゾンセンター、という構成も発表されました。

 


《東京ミッドタウン記者発表会の様子》(2006年3月23日)


《東京ミッドタウン記者発表会の様子》(2005年7月14日)

 

 

■東京ミッドタウンとのデザインを中心とした連携関係について

 

―――デザインハブと東京ミッドタウンは、双方のプロモーションなどのデザインに関する連携関係があります。
この関係性は、どのように築かれていったのですか?

 

矢島: JDPの入居時に、東京ミッドタウンにただ入居するだけではなくて、色々なプロモーション系のイベントを一緒にやりませんか?と、こちらからもお声がけをしたのです。せっかく同じ建物で活動をするので。

まず、東京ミッドタウンのロゴマーク公募のご協力をしました。コンペティション式の提案、審査員の人選などです。また、「TOKYO MIDTOWN AWARD(東京ミッドタウン主催のアートとデザインのコンペティション)」では、応募要件や募集方法の策定から当初は、事務局も担当しました。商品化の協力として、靴下屋さんなど製造会社を探したり・・。初期の頃から、いろいろとご協力しています。

また2006年春から、東京ミッドタウンマネジメントとデザインハブ三機関が集まり、「デザインハブ連絡会」を毎月一度、開催しています。

そして現在でも、ミッドタウンが行う秋のイベント「デザインタッチ」や、子供の日のシーズン・イベントなどでも、JAGDAのデザイナーなどの参画など、連携や支援活動はずっと続いています。

 


《Tokyo Midtown Award 2018 授賞式》(2018年)

 

矢島: 2012年4月、無印良品東京ミッドタウン店とデザインハブによるコラボレーション「MUJI meets Tokyo Midtown DESIGN HUB」では、ムサビの津村耕祐先生(空間演出デザイン学科 教授)に店頭のオープンスペースで展示をして頂きました。空気緩衝材プチプチを使った作品の展示です。

同年3月の六本木アートナイト2012(六本木の街を舞台に展開するアートイベント)では、津村先生や学生達がそれらの作品を着て、六本木の街を歩く企画もありました。この頃の無印良品とムサビの活動も、市ヶ谷キャンパスでの無印良品との連携へと繋がっているのでしょうね。

 

―――この頃から、無印良品とムサビの関係があったのですね。
2019年設立の市ヶ谷キャンパス内にはMUJIcomがあり、無印良品の商品販売だけでなく、企業との研究、アイデアを実践できるスタジオや、展示スペースを設けています。

 


《MUJIcom 武蔵野美術大学市ヶ谷キャンパス》


《MUJIcom 武蔵野美術大学市ヶ谷キャンパス Open Market》

 

 

■デザイン・ラウンジが市ヶ谷へ機能移転することについて

 

―――これまでの社会と美術大学の関係に危機を感じ、ムサビは社会連携活動を積極的に取り組んできましたが、デザイン・ラウンジが六本木で順調に活動できたのは、デザインハブ構成機関の日本デザイン振興会、日本グラフィックデザイナー協会の皆様のお力添えのおかげです。今後の活動について、一言お願い致します。

 

矢島: このままではマズイ、という危機感から色々な新しいことに取り組んでいらっしゃるので、市ヶ谷移転後も引き続き、挑戦したらいいと思います。正解は誰にも分からないし、違っていたら直せばいいので。デザイン・ラウンジでは、そういった外からの情報を感じ取り、観測されていたでしょうし、ずっと鷹の台キャンパスにいると、いい場所だからこそ安定して動きづらいこともあるかもしれません。市ヶ谷だからこそ、出会える人や企業と繋がっていけるといいですね。

 

———これからの社会とデザインの関係は、どうなっていくでしょうか。

 

矢島: 何事も単独ではなくプロジェクトベースで、学校や団体、メーカーやデザイナーなど、色んな人と組むスタイルにしていけるといいですね。東京ミッドタウンに来たのは、それを実践できる場所と協力者が近くにいれば活動が広がるのでは、という思いがあったからです。結果として、色々な人が訪れるようになり、色々な話が入ってくるようになりました。市ヶ谷でも、そういった環境を活用しながら活動を広げていくといいと思います。

 

———これまでのデザインハブの成り立ちと活動を振り返ることで、9年間、大変貴重な環境で活動させて頂いたということを改めて感じました。これからも、新しいデザイン活動、社会連携活動に取り組んでいく所存ですので、市ヶ谷移転後も武蔵野美術大学をどうぞよろしくお願い致します。

矢島さん、近藤さん、本日は貴重なお話をありがとうございました。


《東京ミッドタウンからの景色》

 

 


矢島進二(やじましんじ)公益財団法人日本デザイン振興会 理事 事業部長
1962年東京・中野生まれ。1991年に現財団に転職後、グッドデザイン賞やデザインハブを中心に様々なデザインプロモーションに従事。武蔵野美術大学、東海大学、九州大学等で非常勤講師。月刊誌『事業構想』『先端教育』で連載執筆中。2019年2月号『自遊人』では「ソーシャルデザインの軌跡」について寄稿。

 


近藤直樹(こんどうなおき)公益社団法人日本グラフィックデザイナー協会 事務局長代行
1969年栃木県生まれ。1993年早稲田大学社会科学部卒業、JAGDA入局。デザインハブや知財権関連などの各種事業を担当。

 

 

(写真及び資料提供=公益財団法人日本デザイン振興会、公益社団法人日本グラフィックデザイナー協会)
(文=武蔵野美術大学 デザイン・ラウンジ)

 

 

【スペシャルインタビュー2020】

第一回「デザイン・ラウンジと津村耕佑」
https://ichiemu.musabi.ac.jp/2020/07/13998

第二回「デザイン・ラウンジと美術大学の社会連携」
https://ichiemu.musabi.ac.jp/2020/07/14085

第三回「デザイン・ラウンジと学生ワークショップ」
https://ichiemu.musabi.ac.jp/2020/08/14148

第四回「デザイン・ラウンジの成り立ち」
https://ichiemu.musabi.ac.jp/2020/08/14254

第五回「デザイン・ラウンジとこれからの集まる場」
https://ichiemu.musabi.ac.jp/2020/09/14424

第七回「東京ミッドタウンとデザイン・ラウンジ」
https://ichiemu.musabi.ac.jp/2020/10/14640

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